山王日枝神社と坂道を巡る「赤坂界隈散策」

山王日枝神社と坂道を巡る「赤坂界隈散策」

京都の「祇園祭」、大阪の「天神祭」と共に、日本三大祭りの1つである日枝神社の「山王祭」が、今年2016年は、6月7日(火)から6月17日(金)まで開催されます。ぜひ、この時期に、高層ビルと伝統のあるお店が共存する、歴史のある大人の街「赤坂」を訪れてみてはいかがでしょう。

赤坂・山王日枝神社の歴史
「赤坂」という地名の由来は、茜が群生していた場所で「茜坂」と呼ばれていたものが赤坂に転じた説。また、紀伊国坂と赤土の土壌から赤坂と呼ばれたという説があるようです。

赤坂といえば「一ツ木通り」

赤坂といえば「一ツ木通り」というほど有名な通りですが、1567年「人継(ひとつぎ)村」として開拓され、江戸時代になり町屋や武家屋敷が作られた事をきっかけに次第に町として発展して行ったと言われています。天正18年(1590)、徳川家康が江戸城に向かう際にも、この道を通ったそうです。
地下鉄赤坂見附駅の東南側に建つ山王日枝神社は、縁結びや、子授け・安産祈願に訪れる参拝客でにぎわっています。
創建の年代ははっきりしませんが、江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越山王社を勧請したのに始まると言われています。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に移し、江戸城の鎮守としました。その後、慶長9年(1604)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外、今の隼町国立劇場附近に移し、庶民が参拝できるようになります。
明暦3年(1657)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に移りました。昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿が焼失しましたが、昭和33年(1958)に再建されました。

高橋是清翁記念公園
明治時代後期、日本の金融界の重鎮として、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家、高橋是清(1854~1936)の邸宅跡。昭和13年、記念事業会
が東京市に寄与して同16年に記念公園として開園し、昭和50年に港区が管理をするようになりました。カエデ、モッコク、ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩り、中央の池泉のまわりには石橋や石人像、石灯篭が配置され、荘厳な雰囲気さえ漂う、日本庭園の趣きをもった公園です。

豊川稲荷別院
江戸時代、大岡越前守が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊を祀る曹洞宗の寺院。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至っています。一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は「狐を祀った神社」を想像してしまいますが、神社でなく寺院で、お祀りされているのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豊川ダ枳尼眞天とは、霊験あらたかな仏法守護の善神です。稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豊川稲荷」が通称として広まったのだそうです。

TBS放送センター

赤坂サカス
平性20年(2008)の春に誕生した、TBS放送センターを中心に、赤坂ACTシアター、赤坂BLITZを備え、イベント、演劇、音楽、そしてショッピングにグルメが楽しめる、魅力あふれる複合エンターテインメントエリアです。赤坂サカスというネーミングは、2月中旬の河津桜に始まり4月下旬の八重桜まで、約100本の桜が咲き競うことから「桜を咲かす」というところからと、他に三分坂、薬研坂、丹後坂、牛鳴坂等々、赤坂に存在する坂の数々より、「赤坂にたくさんある坂=坂s=サカス」、赤坂サカスをローマ字表記(Akasaka Sacas)にして右から読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」になることなど、赤坂という土地の持つ、「和」のイメージを重視してつけられたそうです。

この周辺の主な坂道の名称と由来

紀伊国坂(1)紀伊国坂〔きのくにざか〕
坂の西側に紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから。赤坂の起源とする説がある。【元赤坂 2-1、千代田区との境】

(2)弾正坂〔だんじょうざか〕
西側に代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かった吉井藩松平氏の屋敷があったため。【赤坂4丁目9番、4丁目18番の間】

(3)牛鳴坂〔うしなきざか〕
赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう。【赤坂4丁目1番、4丁目8番の間】

(4)丹後坂〔たんござか〕
元禄初年(1688)当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。【赤坂4丁目2番、4丁目5番の間】

薬研坂(5)薬研坂〔やげんざか〕
中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているため名付けられた。付近住民の名で何右衛門坂とも呼んでいた。青山通り(国道246号線)の赤坂支所前の信号のある交差点から南にいったん下り、さらに上る坂道。つまり、南北2つの坂が対になって「薬研坂」と呼ばれている。【赤坂4丁目17番、7丁目1番の間】

円通寺(6)円通寺坂〔えんつうじざか〕
新宿通りから,四谷二丁目と三丁目の境界を南に 円通寺前に下る坂。坂名は、元禄八年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称「円通寺」からとった。それ以前に同名の別院があったともいう。 【赤坂4丁目13番、5丁目2番の間】

三分坂(7)三分坂〔さんぷんざか〕
急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん・百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。【赤坂5丁目5番、7丁目6番の間】

 

歴史と今を感じられる赤坂、坂道もゆっくりと歩いて足腰をより元気に。ここに登場する坂を巡っただけでも、かなりの鍛錬でした。ちょっと頑張ってお疲れ気味の時など、散歩途中か帰りがけに「やまや赤坂店」で、アミノ酸がたっぷり含んだ素材が溶け込んでいる陶陶酒の購入などはいかがでしょうか。看板はアルファベットで「La Cave de YAMAYA」となっています。

今回も散策MAPはPDFでアップ!ぜひ、巡ってみてください。
山王日枝神社と坂道を巡る「赤坂界隈散策」MAP

【赤坂から寄り道散策】~弁慶橋から紀尾井坂、そして清水谷公園へ

弁慶橋を臨む

弁慶橋は明治22年にかけられたもので、橋の名は、弁慶小左衛門という橋の設計者の苗字をとってつけられたそうです。現在の橋は昭和60年12月に築造されたものです。
弁慶橋のたもとにはボートハウスがあり、ボート遊びができるので最高のデートスポットと言えるでしょう。
橋を渡ると、左手には「弁慶掘遊歩道」。この地は、加藤清正→井伊家→伏見宮家→ホテルニューオータニと所有者が変わりましたが、その一部、濠沿いの道が遊歩道となって一般に解放されています。
橋の先に延びるこの遊歩道を散策しながら進むと、ホテルニューオータニの敷地を抜けて、目の前が紀尾井ホールで、右手には、明治11年、大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」で有名な「紀尾井坂」があります。このあたり一帯は、紀伊・尾張・井伊の御三家の屋敷があったことから、この3つの文字を合わせた「紀尾井町」と名付けられています。紀尾井坂もその御三家があったことが由来していますが、坂下に清水谷があることから清水坂ともいわれています。

清水谷公園

紀尾井坂から南に向かう紀尾井町通りを進むと「清水谷公園」があります。
清水谷公園には、千代田区の文化財に指定されている大久保利通の業績を称える石碑や麹町大通り拡幅工事の際に出土した玉川上水の石枡が展示してあります。
公園前の紀尾井町通りは、日本の桜の代表格「ソメイヨシノ」が散る頃、八重桜(関山や普賢象)が咲き誇り、桃色の並木になります。通りを南下していけば、また弁慶橋が見えてきます。グルっと一周のちょっとした散策コースです。

(「健康な暮らし」2016年6月号掲載)