三軒茶屋から松陰神社、豪徳寺【世田谷線周辺散策】

三軒茶屋から松陰神社、豪徳寺【世田谷線周辺散策】

東急世田谷線の歴史

普通運賃は1回の乗車で150円。世田谷線散策きっぷ(330円)で一日乗降り自由。

東京都世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結ぶ東急世田谷線は、路線距離5.0km、駅数は10駅で2両編成の路面電車です。現在、都内を走る路面電車はこの東急世田谷線と都電荒川線だけとなりました。
世田谷線は大正14年(1925)1月18日に三軒茶屋駅~世田谷駅間が玉川電気鉄道(玉電)の支線として開業したのに始まります。同年5月には残りの世田谷駅~下高井戸駅間が開業し、現在の世田谷線の形となりました。
昭和44年(1969)5月に玉川線の主線であった渋谷駅~二子玉川園駅間が廃止されてしまいます。残った支線部分が「世田谷線」と改称され現在に至りますが、廃線を免れたのは、区間の大半が新設軌道であり、また並行道路の整備がうまくいかなかったことが理由のようです。
都会なのに懐かしい、静かな街をつないで、のんびり走る世田谷線で、「世田谷の下町」、「歴史の町」といわれている、街並みの風情を感じてください。

★三軒茶屋
昔ながらの商店やレトロな店が連なる路地が魅力の三軒茶屋。その地名は、江戸時代に大山道の本道(今の世田谷通り)と近道(今の国道246)の分岐点に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があった事に由来します。当時は神奈川県丹沢の大山にある阿夫利神社へ詣る大山詣が流行し、文化文政の頃には三軒茶屋という呼称が一般的になっていたそうです。
明治30年代になると三軒茶屋の近くに軍事施設がつくられ、軍関係者相手の商店が立ち並び、商店街が形成されていきました。
太平洋戦争の後、焼け跡になった商店街にバラック建ての商店が並びはじめ、復興が始まります。昭和25年には仲見世商店街が建設され、急速に発展をとげ、現在では都会と昭和の味わいの町並みが混在する街として若者にも人気の街として発展しています。

参考「三軒茶屋どっと混む.」

★キャロットタワー
周辺のランドマークにもなっているキャロットタワーは、銀行や企業、「生活工房」、「世田谷パブリックシアター」などの文化施設や商業施設、行政窓口が備わる複合施設です。
最上階は入場料無料の展望スペース。テーブルやイスなどが置かれ、自由に都会の景色や夜景を望むことができます。解放時間は23時まで。

★目青不動
五色不動(五眼不動)の一つに数えられ、今では「縁結びの不動」として信仰を集めています。境内の「チシャノキ」は100年以上の古木。
4月8日の花祭りは、いまでも生花で飾るそうです。

★松陰神社
吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死。4年後の文久3年(1863)、門下生であった高杉晋作、伊藤博文たちにより、当時の長州毛利藩藩主の別邸のあった、この若林の地に改葬されました。
明治15年11月21日松陰門下の人々が、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀るところとなり、近年は学問の神として参拝者は全国各地に及んでいます。

松陰神社・鳥居前と吉田松陰先生像

★世田谷ボロ市
ボロ市の始まりは、約400年前の天正の時代の楽市にさかのぼります。近郷の村人の需要をみたす農機具・古着・正月用品などを、毎年12月15日に売る「歳の市」として開かれてきました。
明治時代には、正月15日にも開かれ、やがて12月15・16日の両日、正月の15・16日にも開かれるようになり、現在に至っています。時代とともに、並ぶ商品も農機具などは減り、食料品や玩具、装身具、ことに植木類が多く売られています。

★豪徳寺
彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかりました。その時、和尚の飼い猫が手招きするような仕草をしたため、寺に寄り休憩を。すると突然の雷雨になりました。
雨に濡れずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、寺は盛り返したという。
これは、豪徳寺が招き猫発祥の地とする説の一つです。

招き猫と豪徳寺・井伊直弼の墓所

(「健康な暮らし」2017年4月合併号掲載)

今回も散策MAPはPDFでアップしました!
「世田谷線周辺散策」MAP


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