歴史を感じる宿場町通りを歩いて銭湯巡り「千住界隈散策」
隅田川と荒川に挟まれた千住地区は、上野から電車で10分足らずの好立地。千住地区には、JR東日本の常磐線、東京メトロの千代田線・日比谷線、東武鉄道の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)、首都高速新都市鉄道のつくばエクスプレスなど路線もたくさん!
「湯につかり芭蕉の句を詠む銭湯巡り」などいかがでしょうか?
千住・千住大橋の歴史
千住は、江戸四宿(ししゅく)の一つとして最大規模を誇った宿場です。寛永元年(1624)三代将軍家光によって、日光に東照宮が建立され、翌2年に、日光道中の第1番目の宿駅(初宿)として千住宿が指定されたことにより、日光参脂、また参勤交代など、大名をはじめ人々の往来が激しくなり、宿場町としてめざましい発展をとげていきました。現在の千住には、旧家の建物が多く残され、昔ながらのたたずまいをみせています。
千住は、実は銭湯の街としても人気です。一時より数が減ったものの現在でも10軒以上の銭湯が営業をつづけています。散歩の途中にざっと汗を流し、ポカポカ温まるのも下町ならでは。
さて、ここで千住界隈のお話を離れて、銭湯の歴史のお話を少々。
『江戸の銭湯は男女混浴です。これは、江戸末期まで続きました。何度か禁止令が出され、天保の改革(1841~43)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われたそうです。
時代は移って、明治政府は、男女混浴湯はとくに厳しく禁止し、守らぬ業者は営業停止処分にしたり、たびたび通達を出します。しかし、実際に混浴がなくなるのは、明治23年(1890)の、子どもでも7歳以上の混浴は禁止という法令が出されて以降のことです。
大正時代になると、銭湯はより近代化されて、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りに。そして、昭和2年(1927)には、浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ、衛生面でも向上していきます。(東京都浴場組合「銭湯の歴史」より抜粋)』
では、話を千住界隈に戻します。隅田川にかかる千住大橋は文禄3年(1594)に架けられ、日光へ向かう旧日光街道のはじまりで、前途三千里という松尾芭蕉の「奥の細道」の陸の出発点でもあります。
元禄2年(1689)春、芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、江戸深川の芭蕉庵を引き払います。明け方、舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠んだのが矢立の初、「行く春や 鳥啼魚の目は泪(ゆくはるやとりなきうおのめはなみだ)」という句です。「矢立」とは、筆と墨壷を備えた昔の携帯用筆記道具で「矢立の初」とは、一連の旅中吟の書き初めを意味する言葉です。
まだまだ、見どころはたくさん!風情ある建物の数々が、文化財としても残されている落ち着きのある町並みの中に、東京芸術大学や東京電機大学などの最新技術で建てられた都市型キャンパスがあったりと、新旧が程よく融合している興味深い街でもあります。
散策MAPはPDFでアップしておきますので、確認してみてください。
⇒千住界隈散策MAP
旧日光街道である宿場町通りは、歴史を感じる発見が至る所ででき、うれしい1日が過ごせます。ぜひ健康ドリンクを伴って散歩にお出かけください。
(「健康な暮らし」2015年10月号掲載)